第一回 スパイMについて考える。

 飯塚盈延(みつのぶ)という男を知っているだろうか。

昭和7年に起きたまさに小説のネタのような現実離れをした事件の原因となった人物である。その人物こそが飯塚盈延ことスパイMで、なぜMかというと松村昇と名乗っていたからだ。

この男、若い頃から労働運動に参加し、当時の共産主義の本場モスクワのクートベに留学するなど、共産主義の申し子といっても言い過ぎではないぐらいの経歴を持ち合わせていた。だからこそ、昭和三年の三・一五事件、四年の四・一六事件で壊滅に次ぐ壊滅をくらった共産党の幹部に名を連ねたのも納得ができる。

だが、それほどの主義者がなぜ?この謎はやはり永遠のテーマなのか。特高の謎と絡んでいるだけに真の解明は困難と言わざると得ないと言うのも事実である。

それはともかく、その昭和六年再建の非常時共産党の財政部門を担ったMは巧みにソ連のコミンテルンからの金の流れを断ち切り、ただでさえ資金は不足気味であったのに、さらにまんまと財政危機に陥らせ三二年テーゼの資金を得るという名目で昭和七年、党員を煽動し非常手段に走らせことになる。党員からして見れば革命資金は確かに入り用だった上に、国家の弾圧に対抗するための武器も早急に必要だったので意見が固まっても仕方がないことだった。その非常手段とは白昼の銀行強盗で、実行犯からブルジョワ的盛装をした河上肇の義弟の大塚有章と河上肇の娘の芳子が金を受け取って悠々と検問を突破していくなどの用意周到な計画もあり、作戦は成功するかに見えた。

だが、たったの二日で露見してしまう。それもそのはず、スパイMと警視庁が通じていたからである。

だが、そのMを同胞と信じて疑わない非常時共産党の悲劇はまだ終わらない。それから三週間後、熱海で共産党全国会議があったのだが、ここが非常時共産党の墓場となってしまった。Mの手配で集まったのがあだとなったのだ。そしてこれがMの最後の仕事だった。彼はそれ以後、後三十年の余生、歴史的価値のあることはやっていない。ちなみにMと通じていたのは毛利基という特高課長なのだが、この二人がどこでどう知り合ったのかは定かではない。これさえわかればMの中で何が起きたのかがわかるかも知れないのだが。また付け加えておくと、四・一六で入獄された共産党中央執行委員長佐野学が転向したのがこの大事件の翌年であると考えても、多分にこのショッキングな事件の影響があったんだろう。

最後にもう一つ、皮肉にもMの非常時共産党が戦前最大の党勢をほこっていたことも注目すべき点であろう。


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