文庫版「ローマ人の物語 ローマ世界の終焉」を読む


著者:塩野七生
出版社:新潮文庫

文庫版で読んだため、41巻(上)、42巻(中)、43巻(下)に相当する。

見開き要約

<41巻(上巻)>の見開き要約

ローマ人の物語―― 歴史巨編、ここに完結。「最後のローマ人」の孤独な戦いと哀しい結末。

テオドシウス帝亡き後、帝国は二人の息子アルカディウスとホノリウスに託されることになった。皇宮に引きこもったホノリウスにかわって西ローマの防衛を託されたのは「半蛮族」の出自をもつ軍総司令官スティリコ。強い使命感をもって孤軍奮闘したが、帝国を守るため、蛮族と同盟を結ぼうとしたことでホノリウスの反感を買う。「最後のローマ人」と称えられた男は悲しい最後を迎え、将を失った首都ローマは蛮族に蹂躙されるのであった……。

<42巻(中巻)>の見開き要約

ローマ人の物語――歴史巨編、ここに完結。ローマ帝国はいつ、どのようにして滅びたのか。

屈辱的な首都の劫掠の後、帝国の本国たるイタリア半島には一時的な平和が訪れた。ガリアでの地歩を固めたい蛮族が共食い状態になったためだ。しかし、ホノリウスが長い治世を無為に過ごして死んだのち、権力は皇女や軍司令官らの手を転々と渡り、二年にもわたる内戦状態にさえ陥った。そして運命の四七六年、皇帝が蛮族の手によって廃位され、西ローマ帝国は偉大なる終わりの瞬間をもつこともなく、滅亡の時を迎えることになった――。

<43巻(下巻)>の見開き要約

ローマ人の物語――歴史巨編、ここに完結。永遠の都よ、さらば――。巻末カラー「コインで見るローマ帝国の変遷」

西ローマ帝国の皇帝位を廃したオドアケルののち、テオドリック、テオダトゥスと、ゴート族の有力者がイタリア王を名乗り、統治を開始した。これに対して、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスはヴァンダル族の支配する北アフリカ、続いてイタリアへと侵攻した。しかし、この17年にも及ぶ東西の攻防のいずこにも、ローマ人の姿はない。ローマ人はもはや地中海世界の主役ではなかったのである。空前絶後の世界帝国は、消え果ててしまったのだ。




目次

<41巻(上巻)>の目次

カバーの金貨について
はじめに
第一部 最後のローマ人(紀元三九五年―四一〇年)
東西分離/ローマ人と蛮族/将軍スティリコ/後見人/“現場証人”/西ゴート族(ヴィジゴート)/
アラリック/地中海が「内海」であった時代/アフリカ、反乱/農民から農奴へ/生産しない人々の増加/
公共心の衰退/侵攻再開/イタリアへ/対決/ガリアを捨てる/凱旋式/ラヴェンナ遷都/襲い来る大波/
迎撃/ローマ帝国の実戦力/フィエゾレの戦闘/ガリアの現実/毒をもって毒を制す/孤立/謀略/
譲れない一線/死/空白/恐喝(きょうかつ)・その一/恐喝・その二/「ローマ劫掠(ごうりゃく)」/ローマから去る人々
図版出典一覧


<42巻(中巻)>の目次

カバーの金貨について
第二部 ローマ帝国の滅亡(紀元四一〇年―四七六年)
覇権国の責務/進む蛮族化/「三分の一システム」/東ローマ帝国/女と権力/「軍司令官(マジステル・ミリトウム)」たち/
「軍司令官」ボニファティウス/ヴァンダル族/聖アウグスティヌス/「軍総司令官」アエティウス/瓦解(がかい)/
フン族/アッティラ/シャンパーニュの会戦/ヴェネツィア誕生/自壊/再度の「ローマ劫掠(ごうりゃく)」/最後の二十年/
東西最後の共闘/ローマ帝国滅亡
図版出典一覧


<43巻(下巻)>の目次

カバーの金貨について
第三部 「帝国以後」(紀元四七六年―)
オドアケル/共生路線/ブリタニア・「帝国以後(ポスト・インペリウム)」/ガリア・「帝国以後(ポスト・インペリウム)」/
ヒスパニア・「帝国以後(ポスト・インペリウム)」/北アフリカ・「帝国以後(ポスト・インペリウム)」/
「パクス・バルバリカ」(蛮族による平和)/棲み分け/テオドリック/イタリア進攻/東ゴート(オストロゴート)王国/
敗者の活用/忠臣カシオドロス/「東」の長い手/「パクス・バルバリカ」の終わり/学園(ヴィヴァリウム)/修道院/
ユスティニアヌス大帝/『ローマ法大全』/聖戦思想/将軍ベリサリウス/アフリカ進攻/ヴァンダル王国壊滅/イタリア進攻/
ゴート戦役/ローマ攻防/将軍ナルセス/ラヴェンナ落城/戦役再開/終戦/イタリアの死/ベリサリウスの死/ユスティニアヌスの死
読者に
コインで見るローマ帝国の変遷
付録
年表
参考文献
図版出典一覧


感想

あっけなく西ローマ帝国は滅亡してしまった。既にほとんど滅亡していただけに 以後しばらくの方がローマらしくも、安全でもあったというのが皮肉というしかない。 東ローマ帝国による失地の回復についても、よもやこれほど皮肉だったとは・・・。

とにかく本巻も含めて最後の200年は明らかに辛い時代だった。その辛い時代でも200年もったのは美事だったのか、 それともそれはもはやローマと呼べる代物ではなかったのか。

(2014年8月記す)




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