絶対王政成立前後(デンマーク史)
 
 西洋史における絶対王政の時代は十五世紀末から十八世紀の長きにかけて訪れた。それは封建的支配状態から近代的政権の移行過程ともいえる期間で、王権による中央集権化が進み、一部の貴族諸侯などに絶対的に握られていた封建的権力構造から脱却し出した期間とも言えよう。官僚制度が良い例で下層階級からも登用される実力主義的なものとなり、封建貴族の実質世襲的な物でなくなった。そして国王はその実質優秀な官僚機構を通じて行政司法を掌握しつつ、封建契約ではなく賃金契約で兵を雇う傭兵制度で軍事力も強力にするなど、絶対主義の礎を構成していった。更にはこの時代における注目すべき点は、重商主義である点である。金銀の蓄積による富の追求、貿易統制、海運業保護によって国内産業の成長を促し、商品供給源や市場の確保の為めの植民地政策。そしてこれらで国内社会生活の安定化がもたらされ、国内生産力のアップ。この拡大成長サイクルも絶対王政時代の特徴と言って良かろう。
 
 さて、デンマークにおいてであるが、まず順序としてクリスチャン四世辺りから広域的に触れていくとする。なぜなら失墜の時代の始まりだから、つまり制度の変換を求められた時代だからである。このクリスチャン四世、貴族に圧迫を加えつつ、重商政策を通じて商工業者と提携、その結果、1638年、貴族、聖職者、商工業者という市民からなる身分制国会設立に成功し、元老院を牽制する事が出来た。しかしその成果は対外的には苦しい。グスタヴ二世アドルフのスウェーデンの拡張政策を抑えるカルマル戦争は大成功と言っても良かった。が、ドイツへの雄飛の野望の元、神聖ローマ帝国の諸侯の一人という身分として、新教派の盟主という名目で三十年戦争に挑み、フランス、イギリスやネーデルラントの後押しを受けたが、1626年にルッテルで惨敗した上に、後押ししたはずのフランス以下の三ヶ国も約束していた援助をしなかった。その結果、デンマークはドイツ軍に惨敗に次ぐ惨敗、1629年にリューベック講話を結び、ドイツへの不介入を約するしかなかった。これはデンマークにとっては弱小国のレッテルを頂戴する事になってしまう。悲劇の始まりである。とにかくもこの講話の当然の結果として、神聖ローマ帝国の新教圧迫はいよいよ強まったが、1930年にグスタヴ二世アドルフのスウェーデンが参戦。それに旧教側のフランスが加勢し、スウェーデン・フランスの勝利。そしてそのスウェーデンの拡大に恐怖したデンマークが闘いを挑んだトシュテンソン戦争でもスウェーデンが勝利し、更に1648年のウェストファリア条約で三十年戦争は幕を閉じる事になったのだが、北欧スウェーデンはデンマークの付け根のドイツ領などを得るなどバルト海帝国の宿願を果たす事になったのである。
 



 デンマークはクリスチャン四世時代、このように対外的に運がずいぶん下方に向いていたが、次のフレゼリク三世時代も最初対外的には散々だったといって良かろう。即ち1657〜1660のカール・グスタヴ戦争の結果における領土縮小であり、中でもスウェーデン王のカール十世の氷上進軍、これによるコペンハーゲン丸裸の前には圧倒的不利なロスキレ条約(1658)を結ばざるを得なかった。更にカール十世のコペンハーゲン陥落の野望は条約破棄して襲いかかってきたが、フレゼリク三世にとって幸いな事にカール十世は中途で病没し、コペンハーゲン条約が結ばれた。しかしコペンハーゲンの対岸のスコーネを始めカール・グスタヴ戦争以前の領土回復には至らなかった。
 
 しかしこの条約の後のフレゼリク三世は注目に値する活躍を見せつけている。まさに面目躍如の絶対王政への道。つまりはフレゼリク三世は反省を生かした軍備の拡張充実に加え、産業の振興に尽力を尽くし、市民にしてもデンマークを縮小せしめた貴族を打倒するために益々国王を支持しだしたのである。スコーネこそは奪い取りかねたがフレゼリク三世の名声が高まったのも有用だったと言える。そして1660年、絶対王政の気運高まる中、市民出身の議員達と聖職者出身議員達とはフレゼリク三世と密かなる連絡を取りつつ、圧倒的力を持った貴族打倒の目的で王権の強化を画策、そしてついには強硬な態度で身分制議会に挑み、国王に絶対主権を呈上するに至ったのである。つまりは選挙王政から世襲王政への移行、王権の制約から解放される即位憲章の破棄、王国顧問会議の廃止、身分制評議会の解散などをして、従来の有力な貴族の権力が王の下に完全に掌握される事になったのである。続けて1661年には絶対世襲政府文書によって各身分により絶対王政体制が承認され、フレゼリク三世は憲章を発布、国内体制を刷新した。これにより土地貴族の拠点たる元老院が廃止され、官省に基づく官僚制が布かれた。これは中央官庁を整備した行政改革であり、フレゼリク三世は広く庶民などを採用するなど市民層にも開かれた官僚制であり、アムトによる中央集権化が為されたのである。また陸軍に外国人たるドイツ人を採用したりして、土地貴族勢力を徹底的に殺いだ所も絶対的な王権を強力な物にした。加えて1665年には国王法を制定。これによって王権の絶対性、世襲制の規定を安定化をはかり、絶対王政は法律的にも確定されたのである。あと旧貴族の力を殺ぐために、新伯爵を増設して新貴族と旧貴族と対決させるなどもし、ここまで旧貴族勢力減殺を完璧を期したのである。その一方で国力という面でも財政の健全化や工業への助成、通商の伸張をし、商工業進出を図ったのである。
 
 このようにフレゼリク三世のデンマークは最初スウェーデンよりに国難にまで陥らされたが、その試練には耐え抜き、最終的には腐敗した旧勢力の一掃に成功し、絶対王政という新しい時代を迎えるに至ったのである。そしてそれはデンマークにナポレオン戦争までの久々の長期の平和と国力の充実安定をもたらすことになったのだ。(2520字=63*40)


これは私が書いた某大学で専門外で受講した西洋史の期末レポート