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ゴルバチョフの選挙改革
                              
 従来のソ連でも18歳以上の国民に選挙権があった。但し恐ろしく形骸化された形すらもない、名前だけのものだと言って良かった。と言うのも、1936年スターリン憲法で制定されたこの制度、実に直接選挙と言っても、共産党候補一人しか候補が居らず、単なる信任投票に過ぎなかったのだ。しかも背後にある恐怖のために投票に行かないのはもちろん不信任投票は実質不可能であり、ここに民衆の意志は欠片すらも感じられなかったのである。
 
 この虚構化したソ連民主主義に光を植え付けたのがペレストロイカ実行中のゴルバチョフだったのである。1988年6月末からの第19回党評議会で提案した一つに《ソビエト選挙は複数候補制で行い、選挙民の自由な意志表示にもとづかなければならない。》(*1-P81)という項目があったが、この選挙民の自由な意思表示の精神こそ民主主義の最低限度の原則ではないか。
 
 なお、この他の政治改革の提案に、(1)ソビエトに従来の執行委員会とは別の権威ある総会議長の新設、(2)この議長には対応する党委員会第一書記を推薦し選出を促す、(3)従来の連邦最高会議を構成した地方選挙区選出議員750名と民族地方選挙区選出代議員750名に加え、社会団体選出代議員750名を併せて連邦人民代議員大会を設置。そしてそこから400-450人の最高会議を選出する、(4)連邦人民代議員大会で広い国家的権限を持つ最高会議議長を選出する、などがあるが、このうちの(2)は強い批判に晒されたものの、政治改革の統制を示すためと第一書記達に安心感を与えると言う目的で提案されたのだろう。この案はそのまま党協議会に承認され、基づく法律が1988年12月1日連邦最高会議に採択されたのである。なお最高会議の定数は両院で542人とされた。
 
 なお、これは元々、野党を認めるに当たって、ルキヤーノフの二階建て議会を作るという案を草稿にしており、一階の人民代議員大会に野党が認められた事になる。これはいきなり最高会議に大勢の野党を認めるに当たり急進的すぎては色々と問題が噴出することや共産党保守派からに抵抗が激しいのは目に見えていたので徐々に改革を展開させていったからである。なお、ヤーコヴレフは共産党一党独裁から複数政党制を導入するに当たり先ず共産党自体を二分割して、その後に政党を増加させていこうという案を出したが、結局この案は流れて、ルキヤーノフの二階建て議会案、つまりは従来は最高会議だけであったものを、その下に人民代議員大会を設置する事で、そしてその野党参加の民主選挙を認めるというやり方をゴルバチョフは採用し、共産党政府も採用したのだ。
 
 しかし新しく設けられた社会団体選出代議員枠と言う所にゴルバチョフの政治改革姿勢の矛盾が垣間見える事になったのは皮肉としか言いようがない事だった。そもそもこの社会団体選出枠と言う所が一般国民による選挙を経ないと言う民主主義の抜け穴的枠であったのだが、とりあえずこの社会団体からは各種三十九の団体が代議士を選出出来る事になっていた。その中でも、労働組合の全連邦組織及び協同組合団体と並んで、共産党組織は最大百名の枠を持っていたのだが、更にあろう事か、一つ、共産党という団体だけが、ちょうど百名しか候補を選出しなかったのだ。つまり、そこには中央委員会総会による形ばかりの単なる承認投票しかない、どうしようもなく古い型の選挙だったのである。このとても新時代に相応しくない社会団体枠からの選出にゴルバチョフやその政治的側近達が入ったのだから、これは彼自身の最大の汚点であり滅びの序曲だと言っても言いすぎではなかろう。ライヴァルたるエリツィンが共産党指導部から追われた後、草の根からの民衆の人気を獲得し、モスクワ民族地方選挙区で九割近い維持を集め、国民の民主的意思でカムバックした事を考えると、その差は歴然であり、ゴルバチョフが選挙改革した果実はエリツィンに吸収されたと言っても過言ではないと言える。
 
 なお、他の地方選挙区や民族地方選挙区でも従来の党推薦の単一候補が破れるなど民主主義の新風はサハリンからバルト三国まで隅々まで吹いたのだが、変化が極めて微弱な土地も多く、代議員の多くは保守中道派だった。しかしともあれ革命の時以来の初めての選挙は投票率89.8%という自由な選挙では異例とも言える関心を誘ったのである。
 



 で、この結果第一回人民代議員大会が開かれたわけだが、ここではそれは省いて、ゴルバチョフの選挙改革の一つとして、大統領制導入について少し述べたいと思う。
 
 地方共和国選挙戦が盛り上がる最中、ゴルバチョフは二月五日、中央委員会を開いて、共産党の指導的役割を決めた憲法第六条の廃止と、大統領制導入を決定せしめたのである。この大統領制導入については'89年から既に議論されていた事だった。以下長いがその点を引用すると、《八九年には権威主義体制論をめぐって議論が行われていた。全体主義から民主主義へ移行するさい、市民社会の形成とともに社会諸集団の対立が激化するのを調整する権威が必要だというミグラニャンの議論にクリャムキンが応えて、この二人を中心に議論が行われてきたのであった。『プラウダ』九〇年一月三一日号は二人の上司である社会主義世界体制経済研究所副所長のアムバルツーモフが中心になって行った討論「ペレストロイカと権力」を掲載した。アムバルツーモフは、全体主義からの移行期である現在、効率的な改革が必要であるのに、人民代議員大会と最高会議の二元的構造は議会の「機能性に否定的に影響している」と述べて、自分が以前に出した大統領制案を主張した。他の参加者からも、元首が最高代議機関の議事を日常的に指導しなければならないというのは「肉体的に不可能だ」という現実面からの改革の必要性が主張された。》(*1-P113)となるわけだ。しかしこの大統領制への要請の加えて、共和国地方選挙への対応であり、更にはエリツィンのロシア共和国が既に年頭に大統領制案を立てていて、それに焦燥していた点も見逃せないだろう。またゴルバチョフとしては大統領制にする事で、共産党の支配力を緩め、かつての改革者フルシチョフのように突如党書記から外され、一気に力を殺がれる事を回避したと言う事もある。
 
 ともかくも三月十二日に招集された臨時人民代議員大会で第六条廃止と共に決定された。当然の民主国家の大統領のように普通・平等・直接選挙で選ばれるとしたのがこの絶大な権限を持つ大統領でるが、しかしゴルバチョフはここでも自らの政治生命とソ連崩壊を早める原案を立ててしまう。つまりは第一回のみは人民代議員大会で選出するというのだ。この案は革新派の反対にあうも、結局採択され、ゴルバチョフは一人候補で、国民の直接の洗礼を受けずにソ連邦最初で最後の大統領に就いてしまう。
 
 この一人候補になってしまった事について、ゴルバチョフは回想録でこう述べている。《大統領選挙の候補にはニコライ・ルイシコフ首相、ワジム・バカーチン内相のふたりも推薦されたが、ふたりとも出馬を辞退した。私は単独候補になることは何としても嫌だった。正直なところ、「地域間グループ」は、エリツィンか、そうでなければ自派の別のリーダーを推薦するだろうとにらんでいた。たとえば、ポポフか、アファナーシエフか、と考えていた。だが、そうならなかった。その理由は、いずれの人物が出たにせよ、事実上、選挙に勝つチャンスはなかったからだけではなかった。仮に別の状況下であれば、勝つチャンスはなくとも彼らは候補を立て、自分たちの路線を宣伝し、単独候補の選挙を許さないという原則の尊重を確認しただろう。しかし、この時は、彼らはアレクサンドル・オブレンスキー[ロシア社会民主党リーダー]のような自薦候補に対しても応援することを拒否した。その理由は明らかだった。彼らはあらゆる手段を使い、私の大統領就任の合法性を傷つけようという魂胆だったのだ。「大会で選出されたと言ったって、無競争当選じゃないか」というのが彼らの狙いだった。実際、「地域間グループ」の代議員たちは、多数派の意志を受け入れるつもりはなく、権力を目指して容赦なき闘いを進めると最初から覚悟を決めていたのだといってよい。》(*2)
 
 しかしこれは彼自身が作った罠にはまり込んだに過ぎないのだ。つまりは大統領制なのに国民の直接選挙でない。この一点に尽きる。そもそもゴルバチョフは人民代議員選挙でも国民の審判を受けていない議員である。このことに続き国民を介さないままトップに座り続けるにはやはり無理があったと言って良いだろう。自分で墓穴を掘り革新派に更なる攻撃の材料を与えているだけでなく、国民からの直接の親近感のようなものを放棄したからである。正当性が疑われては国民は付いてこない。一方のエリツィンが一年後ロシア共和国大統領に国民の直接選挙によって選出された事を考えると尚更目立つのである。正当性のあるロシア大統領と例外処理で選ばれたソ連大統領。このコントラストがゴルバチョフにトドメを刺したと行っても過言ではないだろう。
 
 このように、ゴルバチョフはペレストロイカを通じて、大幅な民主的選挙・政治改革を行った。この点は素晴らしく評価出来る点であり、ソ連の地に幻の民主主義を復活させた点でも圧巻である。しかしゴルバチョフ自身が選挙を恐れすぎた所に矛盾が生じてしまったのである。ここでもしも解任されてはペレストロイカが全う出来ない等の彼なりの理由があったかも知れないが、国民の民心を掴めていればそのような心配は杞憂に過ぎなかった事は理解出来たはずである。つまりゴルバチョフは民主化を推し進めながらも、その主体たる国民を心から信用出来なかった。そこにゴルバチョフの退場の原因があったのではなかろうか。(4320字=40*108)
 
 
(註)以下に文中に(*1)(*2)で記した引用文献を記す.
[1]著者[2]タイトル[3]出版社[4]出版年次[5]引用ページ
 
*1[1]和田春樹[2]「ペレストロイカ 成果と危機」[3]岩波新書/岩波書店[4]1990年11月20日第一刷発行[5]P81及びP113(*1の後にもページ数表記)
 
*2[1]ミハイル・ゴルバチョフ著、工藤精一郎・鈴木康雄訳[2]ゴルバチョフ回想録(上巻)[3]新潮社[4]1996年1月30日[5]P622-P623

これは私が書いた某大学で半ば専門外で受講した政治学特講に対する期末レポート